問題1                 


次は、日本における身辺警護の歴史について述べたものであるが、誤りはどれか。

1、平安時代後期に、白河上皇が院警固のために院の御所の北面においた「北面の武士」がはじまりであるといわれている。
2、警察における警護は、明治7年、警視庁に羅卒(巡査)をもって大臣、参議の邸宅を警戒する制度が取り入れられ、明治29年には総理大臣その他各大臣に警護員が定められ警護制度が確立された。
3、昭和50年6月に発生した三木総理殴打事件を契機として同年9月警視庁警護課はそれまでの「陽の警護・米国式の見せる威嚇の警護」から「陰の警護・目立たない黒子の警護」を行うSPを発足させた。
4、昭和40年代半ば頃までは、民間警備会社における身辺警備は、公人の警護は警察が行っており、民間警護会社が行う身辺警備業務の警備対象者は私人に限られていたということから、身辺警備業務に対する需要はそれほど多くはなかった。
5、平成に入ってから暴対法施行(平成4年3月)に伴う、企業による暴力団組織との決別告知、公的機関による不良債権処理に伴う暴力団等との衝突、リストラ問題の反動、政治不信、景気悪化に伴う経済的損失者の怨恨等による企業テロ事案の続発など、企業幹部を中心に継続的な身辺警備業務も実施されるようになった。








































解答と解説
正解は(3)
1,2,4,5は正しい。
3は、「陰の警護・目立たない黒子の警護」から「陽の警護・米国式の見せる威嚇の警護」に変更したので、誤り。












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